2016年3月懇親会ご講話
「人生になぜ聖典の勉強が必要か」
by スワーミー・メーダサーナンダ師
(1)人生でもっとも高い野心とは
人生は「高い」ものです。しかし一般的な人にその気づきはほとんどありません。
今、皆さんで『365歩のマーチ』を歌いましたね。「みずから幸せに向かって歩いていくのだ。歩きを止めずに前に進むのだ」そんな歌詞でした。私たちは、生まれてからずっとこの人生を歩いています。そしてその結果は何でしょうか。私たちは、死ぬまでこの肉体で人生を歩きつづけます。しかし(私たちの人格の)心のレベル、知性のレベル、霊的なレベルの歩みは、まるで寝ているかのよう──ほとんどないようです。
「より良い人生を生きる」という“やる気”について考えるならば、野心がない人より、野心がある人のほうが、もっといいではないですか? 「お金持ちになりたい」、「学者になりたい」、「有名になりたい」、──野心がなければ生きるための“やる気”が出ません。そして最高の野心が──「真理を悟りたい」です。「真理を悟る」、「神様を悟る」、「自分の本性を悟る」、これらはすべて同じ意味です。人生を、その野心を持って考えるほうが、もっといいのではないでしょうか?なぜならその結果で、最高の知識、最高の幸せを得るのですから。それが人生の本当の目的ですから。そしてそれには、肉体だけでなく、心と知性と霊的なレベルでも歩み続けなければならない。聖典の勉強は、そのために大事なのです。
(2)聖典の勉強はなぜ必要か
聖典(ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、聖書、お釈迦様の言葉、ラーマクリシュナの福音など)の勉強が大事である理由は、その中に「真理は何か」「神様は何か」「どのように悟るのか」「悟りの障害は何か」「その障害をどのように取り除くか」「悟りの結果は何か」について書いてあり、私たちが人生を歩くうえでの大きな助け(サポート)となってくれるからです。「真理」のことを聞いたことがない人は、数えられないほどいます。しかし、
「真理」について、一度でも聞くのはラッキーな人。
「真理」について、一度でも話すのはラッキーな人。
皆さんはラッキー、私もラッキー。ともに恵まれています。 なぜなら、「真理」は人生の一番大事なことだからです。 すべてはなくなりますが、「真理」“だけ”はなくならないからです。 この肉体がなくなっても、今生で得た真理の知識は、来世、そこからスタートします。 これは、ふつうの勉強とは全く違うことです。 そのうえ、真理を勉強して進んでいけば、最高の知識と至福という結果を得ます。 真理の勉強は無駄ではない。
(3)それを続けること、そして実践すること
真理の勉強は、若い時からしたほうがいいですが、しかし真理を勉強するのに年齢の限度はありません。 いつからでもそれはできます。 一番大事なことは「続けること」。
続けなければ良い結果は出ません。 そしてもうひとつ。聖典が言うことをすべて理解しないといけない、ということはありません。
ここに、 牛乳について、聞いただけの人がいます。
牛乳について聞き、それを見た人がいます。
牛乳について聞き、それを見て、さらに飲んで、強くなった人がいます。
幸せ、幸せ、と口で唱えるだけでは幸せにはなれません。 そのための方法を知るひとつが聖典です。 たとえば『バガヴァッド・ギーター』を勉強すると、「どのように悟るか」「欲望のコントロール」「真理のことを集中して考えるには」など、実践的な方法がたくさん出ています。だから、その勉強をするのは素晴らしいこと。 さらにそれを続け、それを実践するのは、もっと素晴らしいことなのです。 そうした結果が、最高の知識と最高の至福なのですから。
(4)聖典のたった二つのエッセンス
聖典が言うエッセンス(真髄)はたった二つです。
「心をきよらかにする」。
「真理のことを集中して考える」。
聖書、ウパニシャッド、お釈迦様の言葉、ラーマクリシュナの福音──すべての聖典が言うことは、それだけです。哲学の議論や意味を完璧に理解できなくても、心配はいりません。 この二つを勉強して実践すれば、かならず結果があらわれますから。 それが人生をサポートし、至福と絶対の知識を得られますから。
(5)最後のメッセージ
今日の最後の私の助言は、「少なくとも2カ月に一度、聖典勉強会の、この神聖な雰囲気と環境に入ってください」。
難しいことを覚えなくては、とか、すぐに実践しなくては、などと考えなくても、
まずはただ参加してください。 それを続けてください。
するとすぐに実践しなくても、一年くらいあとか、5年あとか、来世かもしれない──
それはわからないですが、結果は絶対におとずれます。
そのことを考えて、皆さん、2カ月に一度、ぜひこの勉強会に参加し続けてください。
2016年3月懇親会 受講生:感想スピーチ
Oさん
昔、車を運転中にとつぜん息ができなくなって、心臓が止まるのでは、という経験をしました。けいれんして病院に運ばれましたが、病名は過換気症候群でした。
それ以来、この病気と付き合いながら生活し、突然「呼吸と心臓がとまる!」という経験から来る「死の恐怖」とも付き合っています。この恐怖は、癌の経験よりさらに強烈なもので、なかなか消えないのです。 「恐怖なし」という言葉が、過去の講座データを読んでいたら出てきました。 私はこれを求めて勉強会に来ています。
Kさん
娘が反抗期、主人が男性更年期、母が認知症。そんな日常の中、1日1回以上は心をしずめ、腹が立ったことや嫌だったことを、他人が眺める感覚で分析するようにしています。すると、腹を立てるのは、自分の見栄や子供への執着が原因だとわかり、聖典で学んだ「執着を手放す」「放棄する」などを思い出して、対応を変えるようにしています。 なぜか知らないのですが、自分が変わったら、娘が変化して、また主人の怒鳴り声も少なくなってきました。いつもおだやかにはできませんが、また私が静かになると、なんとなく家の中がおだやかになり、平和な日々がおとずれているなと気が付きました。
Nさん
「執着なし、怒りなし、欲望なし」、「執着の源は欲望」、「真理が好き。それが一番大事」、「精妙なもの、粗大なもの」、──最初の講義で耳にしたほとんどは、私がそれまで意識した事のないものでした。メモをとりながらあっという間に終わり、終わったあとは気分がとってもスッキリしました。 聖典を勉強してサポートされていること。それまでは結果に執着していました。ですが、それが欲望であることに気づくと、こだわりがなくなり平穏な気持ちになりました。また、「永遠」とは未来の方向にのみ言うのかと思っていましたが、過去にも言えるのだと知り、「生まれもしなければ死にもしない」という理解ができました。日々、メーダサーナンダジの言葉「あってもいい、なくてもいい、なくなってもいい」を思い出してはうなずいています。